森羅万象の旅日記           

3.しけた話

それがどうだ、今はあちこちに別荘らしき建物が増え、洒落た店舗が立ち並び、これでは八ヶ岳山麓の開発地域と少しも変わらないではないか。やはり二十余年は長かったと言う事なのだろう。変わっていないのは目の前に孤高なまでの美しさを見せる御嶽山の雄姿だけであった。

開田高原は日本有数の蕎麦の産地である。せっかくここまで来たのだから前もって調べておいた、おいしいと評判の店に向かう、が、な、何だ、何なんだこの行列は、長々と続くこの列、だってもう二時過ぎだぜ、しかも今日は平日だぞ。

日本の蕎麦ブームもとうとうここまで来たか、かく言う私も大の蕎麦食いで雑誌で探したり人に聞いたりして、畑の中の一軒屋から山奥の店にまでも足を伸ばしたものであった。
そこで見たものは、品川に始まり、横浜、尾張、なにわ、など大都会の車のナンバーだったのである。

元々、蕎麦でも、ラーメンでも 並んでまで食いたかぁねぇやーを生活信条とする私は行列を横目に見ながら、何処か穴場の店はないかと車であちこち探してみた。すると橋のたもとに茶店のような蕎麦屋が一軒、そして入り口の脇に堂々と、「我が店は、自分の畑で採れた蕎麦粉のみを使用しております」の文字。

うむ、これはいけるかもしれない、期待感を抱きながら、中に入ってみると何とも店の造りが悪い。これは、決して豪華にしろと言っているのではない却って蕎麦屋などは、若干しけた店や渋い店のほうが味があっていい物なのである。

しかし、この店は貧相なのである。しけた、と言うのと、貧相とは全く別物なのである。さらに入り口のすぐ真正面に便所がありしかも汲み取り便所ときたもんだ。

風水ワンポイントアドバイス

邪気は直進する、と風水では言います。ですから、T字路の突き当たりの家や、袋小路の突き当たりの家は凶相となります。また、門の真正面が玄関だったり、玄関の正面が便所だったりするのも「衝波」と言って凶相となります。門、玄関、窓などが一直線にある家は、漏財宅と言って、一生お金ガ貯まらない凶相の家となってしまいます。

鬼博の余談
以前、懇意にしている蕎麦屋の親父さんから、"しけた"蕎麦屋を作りたいと言われて、うーと考え込んでしまった。親父さんが頭の中でイメージしていることは大体、理解できるのである。私もそんな店があったらいいなと思う。がっ、"しけた"って何なんだ、

"渋い"とはちょっとニュアンスが違う、"枯れてる"でもない、"わび、さび"と言うような高尚なものでもない。とにかく、こうなんだ、という言葉が出てこない。ああっ このもどかしさよ、自分の語彙の貧困さが恨めしい。 もっと言葉を!

私も建築家の端くれの恥しくれとして、"しけた店"を考えると、やはり、これは引き算の建築だな。しかし、あまり崇高な意識を持って引き算をしてしまうと、艶が出すぎてしまって"しけた店"とは程遠い存在になってしまう。又、たいした意識も無く引き算をすると間違いなく、バラックになってしまうだろう     
豊かさ、とは意外と引き算をすることによって得られる物かも知れない。飛行機が美しいのは、合理性という意識のもとに、徹底して引き算をした結果だと思う。同様に、数奇屋建築の美も虚飾という衣装を引き算することによって、却って豊穣な空間が得られたのだと思う。

再び"しけた店"にもどるが、これは引き算をする時の意識の問題だな。そしてこの意識は"無頼"だな。"しけた店"とは、無頼の意識をもって引き算をすることなのだ。
えっ 無頼ってどういうこと?だって 「フッ、そんなことぉ、いちいち、ガタガタ言われる筋合いはござんせん、私にぁ一切関わりのない事でございます、ご自分でお好きなように考えてくださいまし、ほっといてもらいやしょう、」っということです。

私の敬愛する司馬遼太郎先生の長編小説を読むと、実に余談が長い、余談だけで一冊の本が出来てしまうほどである。でも面白い。私も司馬先生の真似をするわけではないが本文の中に、度々、余談を入れさせてもらいますので、よろしくお付き合いのほどを。


                    旅を続ける