風水入門
6 鬼門 T
家相書を見ると必ず鬼門と言う言葉が出てきます。家相的には鬼門は凶で特に水周り、つまり便所、浴室、台所などの位置としては最凶となっています。
その鬼門の考え方も古代中国から来ています。
古代中国ではこの世界は正方形でその四隅には門があって、鬼門=北東、風門=東南、人門=南西、天門=西北とよばれていました。鬼門については、ここを出て行った者は誰も帰ってこないとか、大地の果てにある門で、神茶(しんと)・鬱壘(うつるい)という二神が守っているのだけれど、よそ見をしているうちに、鬼どもが入り込むとか、いろいろな説話があります。
鬼門は十二支でいうと、丑寅(うしとら)にあたり、そこで日本では、牛の角を生やし、虎の牙、虎皮の褌(ふんどし)をつけた姿で"鬼"を表現したともいわれています。
またなぜ北東が忌み嫌われたかというと、北東は中国では気候的にも歴史的にも特別な意味を持つ方向だったからです。
中国の古代王国が栄えたのは、黄河の中流域、現在ですと西安、洛陽のあたりです。その都からみて北東の方角からは冬になると猛烈な、そう、正に鬼のような寒風が吹き付けてくるのでした。
また一方では、遊牧民族・匈奴(きょうど)が北東の方角からたびたび侵入してきました。それを防ぐために秦の始皇帝は万里の長城を築くにいたったのです。そんな訳で漢民族は特に北東を恐れ警戒するようになったのです。
そして日本でも、この鬼門説を受け入れる地理的条件がありました。当時の都である京都から見ると、北東からは寒い北風が吹きつけてくるし、また、その方角には蝦夷の存在がありました。
桓武天皇は坂上田村麻呂に命じ蝦夷を討ち、征夷大将軍に任命されました。征夷というのは蝦夷を討つというところから来ています。この征夷大将軍の制度は江戸時代まで延々と千年以上も続くことになるのです。
桓武天皇が遷都した平安京も、北東の比叡山に延暦寺を置いて鬼門除けをしています。さらに江戸城から見て北東にある上野山に東叡山寛永寺(東にある比叡山)を築いたのも鬼門除けの意味を込めての事です。
更にその延長線上には栃木県の日光があります。ご存知のように日光は徳川家康の菩提所ですね、家康が権現様、神となって江戸の町、つまり徳川幕府を守っているのです。
また日本の二大怨霊の平将門と菅原道真を祀る神田明神と湯島天神も北東の方角にあります。これらの意味は北東、つまり鬼門の方角を動かさない、静止した状態にしておくことなのです。